愛について

愛?それにどんな意味が?という気分が常にある気がする。
この気分については私個人の歪みに起因するところが大きいだろうことは棚上げとしたい。
この愛にどんな意味が?という問いに対する答えとして何があるかについて考えたい。
人が人を愛するということには生産的価値が付随してくるのはわかる。人が人を愛することで多くのものが生まれている。
しかし愛を生産的価値に還元したところで人々の求める答えとはずれがある。
人々はそこに本質的価値を嗅ぎ取っているはずなのだ。
とはいえ、愛という現象に本質的価値を見出だすには神話を持ち出す他ないというのが率直な感触だ。他にこの概念を理論付けるに足る物語に心当たりがないのだ。
気分なのだ。気分に過ぎないものをどうして客観的に観察可能な、安定した物質のごとく鑑定できるだろう。
気分、この気分が人を動かしている。
美味しいものを食べることになんの意味が?と問われたら食べたいという気持ちがあると答えるだけではないのか?
欲することに理由など必要ない。
だが私は欲することに飽いている。
棚上げにした問題に戻ってきてしまった。
欲するということは生きることの言い訳を探しているだけなのではないかと感じる。
生きるためには多くの言い訳を必要とする。生きるには労働しなければならない。労働という莫大な消耗にはそれに見合う何かを見つけなければならない。命を食べるという行為にはそれに値する生を見つけなければならない。生きるということに免罪を求める。
美食の快楽はその天秤を釣り合わせるか?
私はそう感じない。他の何があれば釣り合うか?足していけばいつか釣り合うだろうか。
愛ならばどうか。人に愛されているという事実は生きることの言い訳として充分か?人を愛しているということに恩寵があるか?
腑に落ちるところもあるか?愛は免罪符だったのだ。
それは天秤にかけるというその責務からも解放する。
愛は無条件に生を肯定する。あらゆる負債をなかったことにする。愛だけが答えなのだ。
なぜ愛だけが!それだけが人の生を祝福するのか。
あまりにも残酷だ。これは呪いだ。生を肯定する気も失せた。
あまりに退屈な結論!